なぜ「ナンパ」ではなく「中庸ナンパ」なのか
まずそもそもデジタルエロ禁(この文脈ではオナ禁と同義)という怪しい所業に取り組むのは、
モテたいからに尽きる、と言っていいだろう。
(もちろん副次的効果として朝に強くなるだの、頭の回転が速くなるだの、物事に動じなく為るだのを求めてやる人もいると思う)
モテるために必要な"何か"がデジタルエロ禁をすると確実に溜まる。
(正確にはマイナスになったものがニュートラルな状態に戻っているのだと思っている)
すると、溜まった男の魅力を活かしたくなる。
そこで何をするのか。
ナンパだ。
マッチングアプリでも合コンでも職場でも習い事でもない。
人生として、男として、仕事として、恋愛として、
偏ることなく最もバランス良く鍛えられるのがナンパだと思う。
やった子がどれだけ可愛いかどれだけ綺麗かを数値で表したり、
何人新しい子とやったのか数を競ったり、声を掛けて30分でホテル入ったり、
やれる人=すごい
ナンパ=やりたい人
みたいな風潮になっていることにずっと違和感を抱いていた。
一方で、やる過程において発生するコミュニケーションの攻防がナンパにはある。
これには人生の楽しさが詰まっていると個人的に思う。
やることではなくコミュニケーションとしての楽しさを追求するために、
ナンパに取り組んでもいいのではないか。
とはいえ決してやることを全否定するわけはない。
いいなと思った子・魅力を感じる子はちゃんと口説く。
口説く過程で学べることもたくさんあるしこれも楽しさの一つになる。
「中庸」というキーワードを使ったのはそういう意味を込めているのだ。